鉄砲洲稲荷神社の場所や御由緒などの概要についてはこちら、前回の記事で。
地図を再掲すると、このような位置関係。
昭和初期の神社建築が残る社殿の右手には・・
教育委員会の解説に書かれていた、富士塚がありました。想像していたものより大きいです。塚の大きさに合わせた、小さめの鳥居もありますね。街なかの神社ですので、周りにはマンションが隣接。
石段が作られていて、実際に登れた時期があるのかもしれませんが、今は登るのは禁止です。ひとつひとつの石は主に溶岩のようですね。頂上の小さな祠は、浅間神社でしょうか。
ご存知のように富士塚は、身近で拝むためのミニチュア富士山です。小さな溶岩は実際に現地に行った人たちが持ち帰ったものでしょうか・・かなり大きい石もありますが、まさかこれは富士山のものではない?ですよね・・
江戸の富士塚の基本様式について補足はこちら
穴が開いた巨石。茅の輪くぐりのような再生信仰に近い意味があるのでしょう。地元にあった巨石を、石が集まる身近な信仰の場、ここ富士塚に持ってきたのかもしれませんね。
江戸の富士塚の基本様式について補足はこちら
もう何と書いてあるかは読めませんが、改修のたびにいろいろな記念石碑を設置する気持ちは、現代人でもよくわかります。
この石板は、商号・屋号の家紋、ロゴマーク(そういうのを昔はなんと呼んだのか?)だけが彫られていますね。とてもモダンな感じです。商人の仲間同士での富士参りだったのでしょうかね。
江戸時代の庶民の間では、みんなからお金を集めては代表者が富士山にお参りに行く、富士講という積み立てシステムがあったそうです。お伊勢さんに行く伊勢講なども有名ですよね。自分の番が回ってくるまで、楽しみだったでしょうね。富士塚を仰ぎ見てはその日を夢見たのでしょう。
金銭的にも、また幕藩体制という社会の仕組みからも、自由に旅行することが難しかった時代。みんなで聖地にお参りする富士講は、格好の旅行のチャンスだったということでしょうね。表向きは敬虔な信仰心、だけどそのなかに庶民の日々の喜び、娯楽、生命感が息づいているような気がしますね・・