稲荷だけどキツネじゃない。鉄砲洲稲荷神社

鉄砲洲稲荷神社の御由緒

南高橋を左手に見つつ、高橋から鉄砲洲通りを湊・明石方面へ進みます。地図で言うとこういう位置関係。
高橋から鉄砲洲へ地図
新川方面から鉄砲洲稲荷

街なかのお稲荷さんは小さい所が多いのですが、鉄砲洲稲荷神社はかなり大きいほうですね。右の道路が鉄砲洲通り、この先が高橋です。



鉄砲洲稲荷前歩道

鉄砲洲稲荷正面

鉄砲洲稲荷クローズアップ

現代の東京に残っている神社で、打ち捨てられているようなところは、ほとんど無いと思いますが、この神社も地域の人々に愛されていることが雰囲気から伝わってきます。まずは教育委員会による解説を読んでみます。

鉄砲洲稲荷教育委員会の解説

江戸期の話はほぼ省略されていますね。関東大震災後、昭和10年に境内復興。昭和初期の神社建築と、区内唯一、富士信仰の名残をとどめた富士塚がある点が評価されて、中央区民文化財に登録されているとのこと。

次に、正面の鳥居の右手に設置されたご由緒などの解説版には・・

鉄砲洲稲荷説明1

まず、鉄砲洲の名の由来については、河口の島の細長い形が鉄砲に似ていることから、あるいは、寛永年間に大砲の射撃演習が行われていたから、などの説があるようです。

ご由緒としては、古くは平安初期841年、凶作に見舞われた住民が、産土の国魂神(うぶすなのくにたまがみ)を、生成=いなりの大神として祀ったことに始まったそうです。

また、海岸線の埋め立てによる土地形成が進んで、室町時代に京橋地区、そして慶長17年に八丁堀ができるなか、この地域一帯の土地生成の産土の神として祀られた、ということだそうです。なるほど、生成=いなり、であることがかなり強調された文面ですね。

鉄砲洲稲荷説明2

 

埋め立てが進み、京橋地区と鉄砲洲が地続きとなってから、いなり大神をこの地にご遷座、既にこの地に鎮座されていた八幡神社を摂社として、今日の鉄砲洲稲荷神社の基礎が成り立った、と。

また海上交通の守り神として崇敬され、特殊神事冬至開運祈願祭には「金銀富貴」の神札が授与されるそうです。金銀富貴!これは気になりますね・・それにしても、かなり気合の入ったご由緒書です。最初に見た教育委員会の解説が江戸期を省略しているのは、こちらと被らないよう、文化財としての解説にとどめる配慮なのでしょうね。

昭和初期の神社建築をとどめる社殿も立派です

鉄砲洲稲荷狛犬さん

鉄砲洲稲荷獅子さん

左に狛犬さん、右に獅子さん。おいなりさんなのですが、おきつねさんではないのですね。そのあたりもやはり、いなり=生成からくるものとして、普通の稲荷信仰とは違うのでしょうか・・

鉄砲洲稲荷社殿

社殿もなかなか立派ですね。さすが、中央区民文化財登録です。そして区民文化財といえばもうひとつ。富士塚もぜひ見ておきたいですね。次回に続く・・

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